萩焼の歴史

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萩焼の歴史

■萩焼について

萩焼は、萩藩主の御用窯として萩の城下松本(現・萩市椿東)、深川村三之瀬(現・長門市深川湯本三之瀬)に開かれ、現代も継承発展されている陶芸です。

「萩焼」と一般的に呼ばれるようになったのは明治以降のことで、江戸時代には地元で地名を取り「松本焼」、「深川焼(三之瀬焼)」と呼ばれていました。
さらに「松本焼」はこれを焼いた家によって「坂」・「三輪」・「林」の三窯、また「深川焼」も「坂倉」・「倉崎」・「赤川」の三窯と分けていました。

■萩焼の起こり

慶長9年(1604年)、広島から萩に移封された萩藩初代藩主毛利輝元の命により、朝鮮人陶工「李勺光(山村家)」「李敬(坂家)」の兄弟が松本村中の倉に開窯したことが始まりといわれています。
十三連房(室)から成る朝鮮式登窯が築かれ、当初は高麗茶碗に似ている茶碗が主に焼かれていました。

弟の李敬は寛永2年(1625年)、藩主より坂高麗左衛門の和名を受け、以後、坂家は中の倉窯の中心的役割を果たしていきます。

■古萩とは

「古萩」とはごく初期の萩焼を総称する呼称で、松本焼の初代、二代、三代頃までの作品(枇杷色釉や白萩釉が特色)を指します。

また「大道土」の使用によっても区別されています。
江戸時代享保年間(1716~36年)、周防国吉敷郡大道村(現・防府市台道)において真っ白できめの細かい陶土「大道土」が発見され、高級茶器が盛んに焼かれるようになります。この「大道土」が使用される前の萩焼が「古萩」と呼ばれています。

■近代の萩焼

藩の手厚い保護を受けてきた萩焼の窯元は、明治維新の変革で後ろ盾を失い苦境に立たされます。社会が西洋化し、数多くの窯元が次々と消滅して行きました。
そんな中、明治後期に日本の伝統文化の再評価が起こります。
茶の湯がちょっとしたブームとなり、大正期には深川焼の十二代坂倉新兵衛が表千家に入門し家元伝来の名品を写し、萩焼と茶の湯との結びつきを強調するブランドイメージを確立しました。
この頃から「1楽、2萩、3唐津」と言われるようになり萩焼は一気にその知名度を上げる事となります。

敗戦後の物不足が去り、経済成長期になると更に茶道の隆盛が高まりました。 戦前に比べ比較にならない程、萩焼の需要が高まり窯元は息を吹き返します。
その追い風の中、伝統技法に独自の工夫を研鑽していた深川焼の十二代坂倉新兵衛と松本焼の三輪休和(十代三輪休雪)が文化財保護委員会より記録作成等の措置を構ずべき無形文化財として指定を受けます。
そして1970年に三輪休和は人間国宝(重要無形文化財)に認定され、1983年には弟の三輪壽雪(十一代三輪休雪)も人間国宝に認定されました。

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